プロは使わないフレックス・スラー

 Finaleのスラーは、2002からフレックス・スラーという技術で描かれるようになった。それまでのスラーは、始点と終点の途中の障害物をまったく無視して描かれ、衝突の生じたスラーは手動で修正していくしかなかった。スラーの軌道上の障害物を避けるには高度な計算が必要で、スコア上のあらゆるスラーを瞬時に描くには相当のマシンパワーを必要とするわけだが、コンピュータの処理能力が、やっとそれをストレス無く描けるレベルになったからこそ実現できた機能と言えるだろう。


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フレックス・スラーをオフにした状態

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フレックス・スラーをオンにした状態

 このスラーのおかげで、浄書作業はずいぶん楽になったと思われるかもしれない。たしかに、普通に楽譜を書く分には、もはや衝突を気にしなくてもすむようになったわけだから、このスラーの功績は大きいと言えよう。だが、じつは、プロの浄書家の間ではこのフレックス・スラー機能はほとんど使われていない。なぜか。

 このフレックス・スラー、音形や障害物の突出具合によっては、スラーが必要以上に大きくふくらんでしまうことがある。


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下段のスラーは、臨時記号との衝突を避けたためにこのようにふくらんでしまった。

 五線間の狭いレイアウトでは、このようにふくらんでしまったスラーはかえって場所ふさぎになる。もちろん、そのようなスラーも手動で修正することも可能だが、フレックス・スラーは一旦手を加えてしまうと、もはやフレックス・スラーとしては機能せず、旧来のスラーと同じ扱いとなってしまう。

 もっと困った問題がある。フレックス・スラーは表示倍率によって形状が変わってしまうことがあるのだ。


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適切な形をしているスラーも......

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表示倍率を変えるとまったく違う形になることがある。

 どうやら、フレックス・スラーは描画のたびにスラーの軌道を再計算しているらしく、衝突を判断するしきい値の微妙な誤差によって描画結果が大きく異なることがある。これで怖いのは、ディスプレイ上では適切な形をしているスラーが、印刷やデータ書き出しの際に形が変わってしまうことだ。これでは楽譜としての品質の保証ができず、浄書家としては仕事にならない。結局のところ、プロとしては、このような不安定な機能に頼らず、フレックス・スラー機能をオフにして、従来通りスラーを手動で固定していくしかないのだ。

 では、このフレックス・スラー機能は何のためにあるのか?

 フレックス・スラー機能をオフにすれば、冒頭の譜例でもお分かりのように、あちこちでスラーの接触や衝突が発生する。浄書的にはこれらの衝突はNGであるから、浄書家はこれらを逐一手動で修正していくことになる。一方、一般的なFinaleユーザーがこんな修正作業を望むだろうか? もっと純粋に楽譜入力だけに専念したいはずだ。実際、このフレックス・スラーが導入される以前のFinaleで書かれた楽譜の多くに、スラーの接触や衝突が見受けられた。結局、楽譜情報が判読不明になるようなよほどの衝突でなければ、多くの人は、多少の接触や衝突は放置してしまうのではないだろうか。
 
 浄書家のレベルでは、スラーが接触や衝突を回避することは必要最低条件であり、なおかつ均整が取れた美しいスラーを描くことが求められる。そういう意味においては、冒頭のフレックス・スラーをオンにした状態で描かれたスラーも、とりあえず衝突を回避したというだけであり、美しいスラーというレベルではまだ及第点ではない。
 とはいえ、フレックス・スラーを使用した場合でも、問題となる不用意にふくらんでしまうスラーは、スラー全体から見たらほんの一部だろう(曲の性格によっては、問題が生じる確率が高くなることもあるだろうが)。それは、フレックス・スラー機能を封印することによって生ずる接触や衝突のリスクに比べれば大した問題ではない。一般ユーザーから見れば、フレックス・スラーはそれでも十分な機能なのである。それはちょうど、カメラにおいてプロが絞りやシャッター速度を長年の経験と勘に基づいてマニュアルで調整するのに対して、一般の人がオート露出機能を使うのと同じことだ。

 楽譜浄書が手書きで行われた時代、「スラー引き10年」と言われていたように、美しいスラーを描くことには相当の熟練を要した。楽譜浄書が完全にコンピュータ製作に置き換わった現在でも、美しいスラーを描くことはそれなりの技術とセンスを要する。コンピュータが何も手を加えずに自動的に理想的なスラーを描いてくれる日は、もう少し待つ必要がありそうだ。

 と、この原稿をもたもたと書いているうちに、海の向こうでは、最新版Finale 2009のアナウンスがあった。記事を読んでみると、2009では上記のフレックス・スラーの不安定さが完全に解消されたようだ。これは、我々浄書家にとっても多少の福音となるか......。

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このページは、Hossyが2008年7月11日 19:00に書いたブログ記事です。

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