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Finale よろず相談室
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去る1月17日と18日、オーストリアはザルツブルク、モーツァルテウム大学にて開催された「21世紀における楽譜浄書」(Notensatz im 21. Jahrhundert)という会合に行ってまいりました。勝手ながら、私の印象(というか主観的な意見)を共有できれば、そして、皆さんの意見を伺えれば、議論のきっかけになれば思い、少し(に留まるといいけれど)筆をしたためます。非常に残念に思ったことは、多くのプレゼンテーションが「楽譜浄書」(Notensatz/Music Engraving)でなくおおよそ「記譜法」(Notation)の話に留まったことです。
最初に、内容が期待していたものと違ったことに残念に思った、と申し上げましたが、これはどうも私だけでなく、幸運にも知り合えた優秀なロシア人浄書家や、Finaleのドイツ代理店であるKlemm Music Technologyの方も同様に感じたようです。私が感じた、この凝りのような違和感はなんだろう、とずっと思っていたのですが、恐らく、これも最初に書きましたが「記譜法」と「(特に教育現場における)楽譜作成」(これについて、LilyPondについての講義を沢山今回聞きましたが、このソフトの発展性、柔軟性には目を見張るものがあるのも事実です。)が「楽譜浄書」と語られていることに原因があるようです。
初日の最後に作曲家4人と浄書家1人を招いた雑談会が催されたのですが、ここでも、若い作曲科の学生に記譜法を教える必要がある、というGould氏の講義とほぼ同様のテーマに終始しました。非常に主観的で、かつ乱暴なことを言うとすれば、正直、記譜法など自身で学び、考えるものであるし、作曲家には好きなように書いてもらっていいと思うのです。また、教育現場で問題を作成するためや、試験準備に使用するために音源を抽出したりなど、楽譜作成ソフトは大いに活用されるべきです。しかし、この2つは「楽譜浄書」とはそれぞれ繋がりがあれど、大きく異なるものだと思うのですが、どうでしょうか。
Finaleのドイツ代理店の方と話したことで、いくつか印象に残っていることがあります。1つは、もちろん今に始まったことでもなければ、これが技術の発展を担ってきたのも事実です。かし、デジタル化が進んだ昨今、「よりよい結果を出すための効率化」でなく「効率化のための効率化」をより感じます。もう1つは、DoricoやLilyPondの発展は素晴らしいものです(ある種のトレンドでもありますが)。しかし、ソフトは道具に過ぎず、ソフトの長短を知り、何を目的に使用するか、ということを理解している人は少ないかもしれない、ということです。長々と、まとまりのないくだらない話を何スレッドにも渡って書いてしまい、失礼をいたしました。多少の、海外での状況が垣間見れると嬉しいのですが…。不必要と判断された場合には削除しますので、お知らせください。
初日一番の講義では、ビデオ通話を用い、Behind Barsの著者であるElaine Gould氏による「高品質の楽譜は必要か?」という議題について、沢山の譜例を用いて話し合いました。恐らく、我々が期待するとすれば、彼女の経験に基づいた、編集者ならびに浄書家がどのような作業を経て楽譜出版へ至るのか、デジタル化の今日に「高品質の楽譜」がその多くの作業でもって作られるほどの価値があるのか、希望、展望はあるのか、また、我々の目はどのように楽譜を受容し、どのような楽譜を「高品質」と捉えるのか、そうした視点からの議論かと思いきや、「このように記譜するべきである」というテーマに常に終始しました。どちらかというと、作曲科学生ないし作曲家のための講義、という印象でした。
一瞬、スパムの連投でもされたかと思いましたが(笑)、dahhisaさんの投稿だったので一安心しました。ただ、一言ではとても語れない、いろいろな論点が含まれているので、ちょっと仕事も立て込んでいることもあり、この一連の投稿に対するレスポンスは少し暖めさせてください。
いろいろ考えさせられることがあり、仕事も立て込んでいたこともあって、しばらく寝かせていただきました。スミマセン。それから、話が散らばるのでスレッドをまとめさせていただきました。ご了承ください。まず、Gould氏の講義ですが、「楽譜浄書」と題さず、「記譜法」としておけば、そこまで引っかからなかったのかもしれませんね。ただ、「記譜法」と「浄書ルール」は同一ではありませんが、かぶっている部分もあります。さらには、特にヨーロッパでは、かつては彫金による浄書は浄書家の仕事であり、その作業に作曲家または編集者が携わることはなかったわけですが、作曲家や編集者自身がコンピュータを使って浄書部分を扱うようになった現在、その役割の線引きは非常に曖昧になっています。「21世紀」と付いているのは、そのあたりを意識したものかもしれません。
>非常に主観的で、かつ乱暴なことを言うとすれば、正直、記譜法など自身で学び、>考えるものであるし、作曲家には好きなように書いてもらっていいと思うのです。音楽的内容を好きに書くのは一向にかまいませんが、恣意的な記譜は演奏者を混乱させるだけです。新しい表現のために新しい記譜法を考案することは現代音楽においてはよくあることですが、「本当にその記譜でなければダメなのか」、「それは奏者に説得力のある記譜なのか」は熟慮する必要はあると思います。このあたりは、現代音楽を積極的に取り上げ、初演魔とまで渾名された指揮者の岩城宏之氏の著書、「楽譜の風景」に興味深い話がいくつか書かれています(以前もここで話題にしましたが)。某音楽大学の作曲科の入試には楽典はないのですが、あまりにも作曲科学生が記譜ルールを知らないと言うことで、作曲科学生の入試にも楽典を入れるべきかという議論があったとかなかったとか……。
室長さん、ご無沙汰しています。ベルリンのCantaです。なんだかあっという間に時が流れていってあたふたですね。ぼくが30年以上前にNYに留学していた時のイタリア人の先生がよく言っていました。「同様の効果が得られるならできるだけシンプルに書け」これは現在もぼくの最優先課題です。作曲家たるもの、独りよがりの書き方をしてはいけません。たとえば、Finaleでの記譜が面倒なような書き方、それが面倒だと思ったら別の記譜法を検討すればいいのです。それで結果に大差なければ全てOKです。実際大差ありませんから。wまたベルリンにいらっしゃいますか?
室長殿、お待ちしておりました。お忙しい中、私の無駄話に付き合ってくださり、本当にありがとうございます。そしてcantaさん、おはようございます。初めまして。>「本当にその記譜でなければダメなのか」、「それは奏者に説得力のある記譜なのか」は>熟慮する必要はあると思います。私もその通りだと思います。このプロセス、この自身への問いかけは、記譜法だけでなく、つまるところ「本当にこの音が必要なのか」という作曲の根本に帰結すると思うのですが、特に今の、様々なものが曖昧な時代だからこそ、より必要だと感じています。>作曲科学生の入試にも楽典を入れるべきかという議論があったとかなかったとか……。どこの国も変わらないのでしょうね…。先日の座談会で「記譜法を授業に取り入れるべきだ」なんて作曲科の教授御方々が熱心に論じてらっしゃったので、こちらの入試にも楽典が来る日もそう遠くはないのかも。
所謂「(目的のない)ファンシー」な譜面に対して、私は些か懐疑的です。ですから、cantaさんの>「同様の効果が得られるならできるだけシンプルに書け」というご意見にも至極同意できますし、私もそうであることを常に心がけています。しかしまあ、教授御方々によれば、五線記譜で表せられない音があるらしく…。(あまりにもその座談会での哲学的な話に(作曲家同士ならいつものこと...?)イライラしてしまい、つい「そんなんどうでもええねん!」といった感じで、この相談室でも乱暴な書き方(記譜法の習得について等)をしてしまいました。失礼しました。)ところで、学生時代に図書館の書庫で「美しい楽譜」を探していたら、また一人作曲科の学生がやってきて、彼も同様だったようですが、最終に手に取ったものが、私が春秋社のフランク集で、彼が確かJohn Cageのカラフルな図形楽譜だったことを今思い出して、少し笑ってしまいました。
話が止まらなくなります。(また定例会に伺えればいいのですが。)Cantaさんの>作曲家たるもの、独りよがりの書き方をしてはいけません。というコメント、とても心に刺さりますし、思い当たる節があります。というのも、私は手書きの楽譜が完成後にFinaleで清書するという、実に現代ではアナログな方法で作曲をしているのですが、たまにちょっとした下書きを試しにFinaleで打ち込むことがあります。その際、数小節なのですべての調節も試験的に済ませてしまうのですが、その時点で浄書的に上手くゆかない場合「合理的な書き方をしてないのでは?」と振り返り、書き直すこともしばしばあります。室長殿や、Cantaさん、プロの方々には変に聞こえるかもしれませんし、もちろん浄書家の腕の見せどころでもあるのですが、「いい音楽はその楽譜も美しい」(不自由が少なく浄書させる)という妙な持論があります。(多くの作曲家の方々からも「自由な発想の妨げだ!」と顰蹙を買うと思いますが...。)
いえ、少々舌足らずな言い方でした。すみません。創造が何かの制約によって制約されてしまうのはもちろんいけないのです。ただ、あまりにも突飛な記譜というのは淘汰されます。それはぼくがどうこういうまでもなく現実です。であれば、無駄なことはせずに、できるだけシンプルに書いた方がいいのですよ。繰り返しますが、同様の効果が得られるなら可能な限りシンプルに記譜する、これはもう言っちゃいますが作曲家の義務だと思っています。というか、そのような方法を作曲家は模索すべきです。ぼくは若い時から、変な楽譜が嫌いでした。偶然性とか図形楽譜とか、お前らそれは作曲じゃないだろうが!と思ってましたし、今でもそれは変わりません。限られた五線内で最大の効果を得る方法、これに尽きます。まあこれもぼくの独りよがりな思いなので、あとは各個人にお任せします。dahhisaさん、あなたはとても面白い感性をお持ちだとお見受けしたので反応してしまいました。今後ともよろしくお願いします。
僕なぞに特に面白い感性などなく、むしろ健康的な感覚、理解を持った作曲家でいたいと思う方なのですよ。端的に言うと「普通でありたい」これは藤子・F・不二雄氏の言葉に影響しています。> 創造が何かの制約によって制約されてしまうことは解釈によってはむしろ、とても重要だと思います。多くの(僕世代やそれより少し上の若手…だけに限らずでしょうか)作曲家は、未だに自由であることに拘り、自由という言葉に縛られているように感じます。(創造、自由というものは制限された中から生まれ、そのように歴史も歩んできたであろうにも関わらずです)むしろ制限や障害物が多いほうが燃えますが…(マゾヒスト?!)僕も日本にいる間から「限られた五線内で最大の効果を得る方法」を模索するよう育ててもらって、幸せ者です。(上手く言葉にできずすみません。実は喜びに溢れているのです。なかなか理解もされませんから。本当はネットスラングにあるような「激しく同意!」なんて叫んでみたいのですが。)まさかドイツで活動してらっしゃる方とこの相談室で知り合えるとは、奇妙なものです。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。
別トピックに横槍を入れながらスルーしてしまっていたのですが、dahhisaさんが参加されたというカンファレンスのレビュー記事(英語)が出ましたので、ここをお読みの方ならだいたいチェックされておられるとは思いますが、一応シェアします。https://www.scoringnotes.com/news/highlights-from-the-mozarteum-music-engraving-conference/dahhisaさんが「Gould氏の提案に対しての疑問」として挙げておられたような極端な例が一部紹介されていますね。個人的には、日本のプロオケの現場で、このような省略表記の上から実際の音符やリズムが書き込まれた楽譜をたくさん見てきていますので、小節単位の比較的わかりやすい省略ですらなるべく使わないようにしているといるのですが、すなわち、「演奏者が演奏しやすい楽譜を作る」という目的は同じでも、私とGould氏では正反対の手段を用いている、というのが面白いなと思いました。